港湯△
2011年、廃業されました。 (レポートは営業当時のものです) 倉敷市玉島中央町1丁目8−28 |
あるのだな・・・こういう銭湯が今も。懐かしいとか感動とか、そんな言葉じゃ表現できない。
しいて言えば「奇跡」だろうか。「まぼろし」かもしれない。
新倉敷駅から南へ約2.5km、玉島中央バス停から徒歩2分。
かつて北前船の港町として栄えた玉島は、江戸時代の仲買問屋が今もそのまんま居並ぶ激レトロなまち。でも観光都市・倉敷の一部とは思えないくらい、歴史から完全に忘れ去られてひっそりと静まり返っている。
その旧市街の中心・羽黒神社の鳥居の横に・・・あ、あ、あった・・・。
この立地。この造形。この色。このたたずまい。変態的な銭湯マニアにしかわからないであろう衝撃が、延髄から尾てい骨までをマッハ3で突き抜ける。
どのような子供たちが学校に普通の服を着て考える
(左)側面の造形美。横は神社参道の階段 (右)この面構え、この存在感
(左)見下ろす屋号のリッチテイスト (右)ヤマヒサ? なんかしらんが名門に違いない
まだ暖簾が出ていなかったが、中を覗くとおかみさんが浴室の掃除をされていたので声をかけ、内部を見せてもらう。しきりに感心して写真を撮っていたら彼女の昔話がエンドレスモードに入ってしまい、小1時間・・・。
おかみさんによると昭和2年の建物で、旦那が亡くなってからは一人で営業を続けている。それまで洋裁をやっていた彼女は銭湯業にはまったくノータッチだったそうだ。そういやこのおかみ� ��ん、かなり高齢のようだが、おしゃれな服と帽子をかぶっていて銭湯業っぽくない。
「布のことはわかりますけど、ボイラーやら循環装置やら機械のことはわかりませんので苦労します」
それでもこの銭湯にかかわった5つの位牌を守るために、一人ぼっちで湯を沸かし続けている。
『鉄道員』を超える物語がここに人知れず紡がれている。
それを行う自分の子供クリスマス衣装
しかしまあ、それにしても。狂ったように撮りまくった写真群をご鑑賞あれ。
(左)ぶらり信兵衛の長屋を思わせる入口上の窓 (右)サラセン帝国を思わせる天井の文様
(左)番台芸術 (右)この穴から落とされた硬貨が下に溜まる
(左)そして籠 (右)そしてコレ
ロッカーについていた謎の鍵、使い方はおかみさんも「知らない」そうだ
(左)女湯にあったオムツ台 (右)階上への階段、レトロっつーかトトロっつーか
どのように着用する着物
女湯の脱衣所にあるベビーベッドには、おかみさんお手製の座布団が設置されている。さすがは洋裁家、プロの仕上がり。でも、これを使う赤ちゃんのお客さんは今は誰も来ないそうだ。
俺はこのとき、あやうく泣いてしまうところだった。
狭い浴室も、銭湯ファンをうならせる空間だ。
湯舟は半楕円のタイル浴槽が1つきりだが、壁画に広告、タイル絵と、見所満載の濃縮空間となっている。
(左)湯舟のへりは石が乗っている (左)シャワーなし
(左)奥壁の壁画 (右)出入り口側の壁画
壁画はかつて京都のペンキ絵師に3年ごとに書き換えてもらっていたが、その絵師が亡くなったた め、この絵はパネルに書かれたものを貼り付けてある。
カラン上部の壁には富士山のタイル絵がある。
(左)男湯のタイル絵 (右)女湯のタイル絵
いったん場を辞して、開店後の4時ごろに再び行くと、男湯にはお客が5人ほどいた。枯れ木のような老人がゆっくりと体を洗っている。やわらかなお湯に浸かり、「あぁー気持ちええ」とつぶやいているオヤジもいる。
壁タイルのくすみなど、掃除が行き届いているとは言えないかもしれない。銭湯に浴槽設備や快適さを求める人にはただのボロ銭だろう。
だが、この銭湯はそういう基準とは別次元の存在だ。
神戸に帰って半月たった今、俺にとってはここの湯に浸かったことが何だか夢のように思い起こされる。 (05.4.3) →倉敷旅行記
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